WHAT'S OSEKKAI SHACHO

おせっかい社長とは

こんにちは。おせっかい社長こと渡辺千春です。

私が、なぜ“おせっかい社長”と名乗り、“おせっかい”をし続けているのか?

自己紹介に変えて、私の生い立ちに少しだけお付き合いください。

 

【生い立ち】

私が生まれたのは、鉄腕アトムが放映開始された1963年のことです。

ですので、私と鉄腕アトムは同い年しかも同じ誕生日。私もアトムのように、今でも心は少年です(笑)

私は問屋街の下町、浅草橋で産声をあげました。

 

子供の頃、いつも寂しさを抱えていました。

両親は共稼ぎで帰りがいつも深夜。

学校でも、千春という名前のせいで「女だ女だ!」といじめられていました。

いじめられても反撃をせず、いつも我慢をし続けました。

 

毎日懸命に働いてくれた両親のおかげで、大学まで進学をすることができ、経営学を学びました。

卒業後、私が選んだ就職先は印刷会社でした。

 

【社会人時代】

父が経営しているのも印刷会社です。

幼き頃から鼻につくインクの匂いで育った私が、印刷会社を選んだのは自然の流れだったかもしれません。

自分ひとりの力で会社を大きくも小さくもできる規模でした。

私は「自分の力をためせるのでは?」と、意気揚々としました。

しかし、会社に入るとほどなく、またいじめにあいました。今で言う「パワハラ」です。

私は「またか?」と暗い過去を思い出したのです。耐え続ける日常の始まりでした。。

 

【人生で初めてキレた】

人生初めて、キレました。

仕事を始めた2年目のある日のこと。「ふざけるなっ!」と上司に怒号を飛ばし、辞表を叩きつけました。

あの時の「爽快感」と「罪悪感」の入り混じった複雑な感情は、今でも忘れることができません。

自分を初めて出せたこの経験。自分の言葉で人を傷つけてしまう怖さを学びました。

 

【父の病からうまれた決意】

退職を決意した時期、父が病に倒れました。

人生のタイミングというのは、偶然ではなく必然かもしれないと感じた出来事でした。

26歳の春、私は父の事業を継ぐことを決意しました。

事業を継いだ2代目。常識的には苦労もなく、のうのうと生きているイメージがあります。

しかし、「最大の苦難」の始まりとなりました。

父の時代からいた、古参幹部。新しい風をまったく受け付けない反対勢力。沢山のいやがらせにもあいました。

それでも、なんとか実力で見返してやろうと頑張りました。つねに実力を値踏みされていた私。

断崖絶壁に立たされていた私の背中を、グイグイと押す出来事がありました。まさに泣きっ面に蜂です。

売上げの40%を占める、取引先の倒産。

父の会社をついでから10年目のことでした。

もう、だめかと思いました。「やはり自分には無理」なのかと・・・。

しかし、そんな私を支えてくれたのが亡き父の言葉。

昔気質のがんこな父。私を一度もほめてくれなかった父が、唯一私に残してくれた言葉。

「お前なら大丈夫」

父は、私が35歳のときに肺ガンで亡くなりました。

最後の最後、病床から私に贈ってくれた大切な言葉でした。

私は父からの言葉で、あきらめず頑張ることを思い出したのです。

それからというもの、がむしゃらに頑張りました。

ネットでプチプチの販売を皮切りに、率先して営業活動に謹みました。

何度も何度も挫折しそうになりました。

そのたびに、病でありながら、私にエールを贈ってくれた父の言葉を思い出しました。

「お前なら大丈夫」

私を信じてくれた父。毎日遅く帰っても、笑顔でいつも支えてくれる妻。

共に苦労を分かち合ってくれる仲間。私は「人」によって活かされている。

ようやく、「人生で一番大切なこと」に気付くことができました。

「人との出逢いを大切にすること。」

それが私の信念となりました。

 

【45歳からのさらなる転機】

とある交流会での出会い。IT会社の若手幹部との出逢いです。

彼の一言が私の人生の転機となりました。

「尊敬できる、かっこいい大人がいない」

私は、愕然としました。

この混沌としている世の中で、自分になにができるのだろうか?

自分は、若手に夢を与えられる大人なのだろうか?自問自答を繰り返しました。

私が出した結論。

「これからは夢を与える大人になろう。」

そして、若者のために「おせっかい」をしようと決意したのです。

おせっかいをしようという決意から3年が経過しました。

沢山のおせっかいをしてきました。

「おせっかい社長」というブログを開設しました。

仲間を見つける場としてランチ会を主催しました。

60回の開催で約300人の方にご参加いただきました。

活躍されている方にお話いただく座談会を主催しました。

11回の開催で約150人の方にご参加いただきました。

交流会やPARTYも主催しました。

20回の開催で約1000人の方にご参加いただきました。

沢山の方から「ありがとう」をいただきました。

沢山の方から沢山の「笑顔」をいただきました。

それは私にとっても今まで味わったことのない「最高の時間」になりました。

「人の役に立っている」という実感を得られる幸せな時間になりました。

沢山の方から必要とされ、その人数は増えていきました。

 

【48歳から新たなるスタート】

だけど、本職はあくまで「印刷業」。

人数が増えていくに比例してなかなか時間を空けることができず、おせっかいする機会を断念することも増えていきました。

その時の切ない気持ち。やるせない気持ち。

大事な人たちから求められていることにわかってながら応えられない自分。

その気持ちが積み重なっていく日々。ふとあることに気付きました。

「本職の印刷業の時間よりも、おせっかいの時間を待ち望んでいる自分」「おせっかい」が私の天職では?

沢山の方が自分を必要としてくれている。私もみなさんを必要としている。でも、時間が足りない・・・。

考えに考えました。自分と、とことん向き合いました。妻や娘にも相談しました。

そして、重大決心をしました。

「新しい生き方」

社員とお客様は、親戚の印刷会社に託し、25年携わった会社を解散しました。

15年の社長業に終止符を打ちました。

いよいよ本格的な「おせっかい」のスタートです。48歳、ゼロから起業します。

皆が集えるオフィスも借りました。

『スプリングスポット』という名のオフィス。

昔、いじめられた「千春」という名前。その『春』からとりました。

春(スプリング)は、始まりの季節。幸せの季節。

千回の春を、千人の春を、この場所から迎えてほしい。そう願い、この名前をつけました。

皆が『本当の笑顔』になれる。そんな場所を創っていきます。

私には大切な人たちがいます。

いつも笑顔で支えてくれる妻。私を信じてくれる娘。

「なべさん、なべさん」って慕ってくれる大切な人達。信頼してくれる人達。

おせっかいをはじめる「きっかけ」となったあの言葉。

「尊敬できる、かっこいい大人がいない」

私が今、願っていることは、自分が「尊敬できる、かっこいい大人」になることよりも「尊敬できる、かっこいい大人」を増やしたいってことです。

私が導くだけでなく、みんなで一緒に成長していける場所。「スプリングスポット」をそんな場所にしていきます。

私はすごくわがままな人間です。だって、ずっと笑顔で暮らしていきたいから。

そのためには、沢山の方達の「本当の笑顔」が必要なんです。

みんなの笑顔があって、初めて私は笑顔になれます。

皆さんの笑顔を創るため、私はどんな努力も惜しまず、成長していきます。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

2011年10月

おせっかい社長 こと 渡辺千春(2017年7月よりお節介塾を開校)

2015年8月 東国原英夫のそのまんまでは通しません!(チバテレ)に出演